各企業ではそれぞれにその企業特有の「文化」というものが形成されていて、それが異質の「文化」に遭遇すると理由もなくギクシャクする。新しい会社の目標
の達成に邁進する前に、そんな事で角を突き合わせたり、逆に遠慮し合ったりしていたら、本末転倒もいいところなのだが、「文化」の問題は「収支勘定」と
違って数字で計れないので、現実にはなかなか難しいようだ。
この問題は、実は東洋人と西洋人との根本的な相違にも起因するのかもしれな
い。西洋人の多くはキリスト教のような一神教の影響下にあり、常に各個人が全能の神と向き合っている。言い換えれば、色々な決定を行う時には、常に「それ
が正しいかどうか(合理的な決定なのかどうか)」だけを考えるのだ。
これに対し、儒教の価値観の中核をなす「仁」「信」「義」「礼」
「忠」「孝」等は、全て人間と人間の相対的な関係に関連している。(だから、昔の日本人や、中国人、韓国人は、「忠ならんとすれば孝ならず。孝ならんとす
れば忠ならず。嗚呼、如何せん」等と言って悶え苦しんだのだが、西洋人は「神の御心のままに」とか「インシャラー」等と言って、それで済ませている。)
そ
れ故に、東洋社会では、「組織への忠誠心」が「正邪の判別」に優先するケースが多い。自分の国や自分が所属する組織、或いは自分に近い個々の人間(親分や
兄弟分)が、仮にどんなに悪いことをしていたとしても、それを庇うのは「忠」や「義」の観点から当然のことであり、それでこそ人間として尊敬されると考え
ているからだ。
さて、世界市場を相手にしたビジネスの話に戻ろう。ビジネスの世界でも、儒教の教えが通用するところは沢山ある。その中で
も、最も重要なのは「信」(英語ならCredibility)だ。しかし、西洋では、「信」は、概ね「契約」や「権利・義務」の概念と一体化している。ま
た、全てのビジネスは、所詮は「損得勘定」を抜きにしては存在しえず、「損得勘定」は「合理性」をベースとしている。ビジネスに必要な「信」は、「組織と
人間の濃密な関係」とは関係なく、もっと広い概念だ。また、「信」は「合理性」とは矛盾せず、むしろ表裏一体のものと言ってもよい。
結論
を言うなら、日本企業は、この際、「組織と人間を一体として考える」旧来の思考形態から脱却し、「目標の遂行」を一神教の「神」に見立てて、この為に全て
の決定と行動を合理的に組み立てていくべきだ。そうすれば、「既存の組織から脱却した『全く新しい組織』の迅速な構築」と「適材適所の人材によるその合理
的な運営」が可能となり、多くの分野でトップ企業を生み出すことが出来るようになるだろう。